掃除を始めてから、6年目の春だった。
日曜日、いまし監督と3人で不動沢へ。
予報どおり天気はいいけれど冷え込んでいて、
事前に仕入れた情報では瑞牆の朝の気温はなんと4℃。な、なんですと。
なんとか風が吹かないことだけを祈って弁天へ。
が、残念、いつも通り風が吹いていた。
大ザルがフィックスを登っていって掃除とリハーサルをしている間は日光浴。
取り付きのテラスっぽい岩の上は日が当たって暖かかった。
でも、それもそのうち陰ってしまって、あとはずっと日陰。北面だから仕方ない。
大ザルも相当寒かったようだけれど、念入りにリハーサルしていた。
そして、地面へは下りずにそのままトライを始めることになった。
フィックスを登っていくと、樹林から抜けたところは下よりもっと寒かった。
ダウンを持ってこなかったのをひどく後悔した。
ルートの2P目は、ビレイ点から数メートル若干脆いスラブを登って、
そこからポケットの列を使ってのトラバースがまず核心になる。
寒さのせいか体の調子のせいか、トラバースのときにいつもより体が縮こまって見えた。
足元を少し震わせながら、一手一手ゆっくりと送って、大ザルがトラバースを抜ける。
傾斜の落ちたところで一息ついて、
「フィックスが邪魔だ」とかなんとかぼやきながら、浅いコーナーを登っていった。
コーナーの出口で一部ランナウトする小核心があり、そこでも一瞬空気が張り詰めた。
ビレイしているこちらからは、クライマーの足と背中くらいしか見えない。
なので、否が応でも足運びが気になるし、心配にもなる。
結局、大ザルはここも問題なく抜けていった。
また、本人よりも見ているこちらがドキドキしていたようだ。
2P目を登り切って、ビレイ点から届いた「解除」という声は、
何年もかけたプロジェクトが終わったとは思えないくらい、いつも通りだった。
荷物があったしなにより寒くて仕方なかったので、ユマールでさっさと上がった。
風穴ピナクル下のテラスでお茶を飲んで、一息つく。
これで、このルートは完成した。
この上の「風穴クラック」は他ならぬ本人が30年以上前に初登している。
でも、そんな空気ではなかった。
「折角来たからには、これを登らないと」
いましさんが撮っているからでも、言い訳じみた義務感でもない言葉に聞こえた。
ギアを整えて、いましさんに合図をし、大ザルが「風穴クラック」を登り始めた。
出だしの微妙なサイズのクラックをすぐに抜けて、
名前の由来の大穴に入り込んでギアを固め取り。
その上はハンドが入りそうで入らないこれまた微妙なサイズのクラックだった。
流石、このまま登ってしまうのかな、と思ったら、
傾斜の変わり目のところで行きつ戻りつして、テンションをかけてしまった。
寒すぎて手の感覚もないし、シーズン初めでクラックの感覚も鈍っていたようだった。
なんだか力が抜けてしまったけれど、とにかく上まで抜けよう。
ということで、大ザルが抜けて行って、僕もフォローで上がった。
風穴ピナクルの頂上は、思っていたより平らで快適なピークだった。
歴史を感じるボルトが3本打ってあった。
さっきまでと同じく、大ザル本人はプロジェクト完成後とは思えないほど普通だった。
いつも通り淡々とビレイしていて、僕がセルフビレイをとっても、
それから抱き合っても、それこそ既成ルートを登ったときと変わらない様子だった。
寒すぎたからなのか、実感が湧かなかったのか。
でも、ちゃんとピークの一番高いところに立って、バンザイをしていた。
僕はそれを見て、ひとり拍手をしていた。
フィックスを回収して取りつきに戻り、いましさんが撮った映像を見せてもらうと、
自分たちがさっきまで、なんて贅沢な場所に立っていたのか、それがよくわかった。
澄んだ青空と新緑の不動沢とたくさんの岩の頭、遠くに八ヶ岳、
剣のような形でそそり立つピークと、それを断ち割る一本のクラック。
なんだよ、カッコいいじゃないか。
ルート名は「センス・オブ・ワンダー」になった。ずっと前から決めていたのだそうだ。
神秘的なもの、不思議なものに目を見張る感性。
それは、一人のクライマーとしての眼差しでもあるのだろう。
「風穴クラック」を大ザルが初登してから、長い年月が流れた。
その当時、この壁を登ろうとは思わなかったのだという。
しかし岩は、ラインはずっとそこにあって、イワタケに覆われていた。
その歳月を経て変わったのは、登る人間の方だった。
考え方が変わり、スタイルが変わり、道具も変わり、見る目も変わった。
そうした時代の変遷に流されることなく、かといって変わることを拒むこともなく、
ただ自分が愛するものへの純粋な眼差しをもって、
ひとりのクライマーがこのルートを登った。
しかも、自分の限界を押し上げて。
つまり、「センス・オブ・ワンダー」は、30数年越しでやっと完成したわけだ。
僕の人生よりも、よっぽど長い。
風穴ピナクルからテラスに降りた後、大ザルはこう言った。
「このピッチはまた別の日に登りにこなきゃな」
いつものように、頬に少しチョークがついた、父の顔だった。
なんだよ、えらくカッコいいじゃないか。
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