2025年3月9日日曜日

アリとナシ、是と非

Dawn Wallのレポートを訳したりしている間に2月が終わってしまった。
自分のクライミングはできているので、少しずつ書いていこうと思う。

この一か月で、2本のルートを初登した。
どちらも地元の非公開エリアで、大ザルが数年前から足繫く通っている岩場だ。
その初登と前後し重なる形で、いろいろと考えたことを書いておきたい。



「必要」という言葉は、扱いが難しい言葉だ。
重要なようで、正しいようで、だからこその危うさも秘めていると、僕は思っている。

しばらく前に、とある岩場(岩場A)でこんな話を聞いた。
「あの5.11の周りにアップできるルートが必要だと思ったから、新しく5.10くらいのルートを作った」
その5.11は僕も前に登ったことがあったので、この話には少し驚いた。
というのは、5.11の取り付きから50メートルも歩けば、易しいルートが既に沢山あったからだ。
新しくできたその5.10を僕は登っていないし、もしかすると登れば面白いルートなのかもしれない。
しかし、僕はこの「必要だと思ったから」という話に違和感を覚えた。
この岩場はホールドが割と豊富な岩質なので、掃除してボルトを打てば、まだいくらでもルートを作ることはできる。
ただし「いくらでも」というのは、あくまで物理的な話だ。
以来、「必要」という言葉が、僕の中でずっと引っかかっている。

また2月のある日、別のとある岩場(岩場B)に出かけた。
特に目標は決めず、トポを見ながら5.11~5.12のルートをあれこれとオンサイトトライした。
その中でトライした5.12後半で、核心のムーヴを読み間違えてフォール。
「あー、これは後でもう一回だな」と思いながらムーヴをバラして抜けていくと、
終了点直下のホールドを持った時に、指先に妙な感触があった。
明らかに岩ではない何かに触っている。かといって、シッカーでもない。
ムニュッと柔らかいその感触に何かと思って覗き込むと、
フレーク状のホールドにコーキング材のようなものが塗られているのだと分かった。
このルートは過去にもキーホールドが欠けたことがあるらしく、
問題のフレークもそのうち剥がれてしまいそうな見た目をしていた。
ホールドが無くなることを危惧した誰かが、補強のためにと塗ったのかもしれない。
もしそうだとすれば、その心情自体は理解できる。
しかし明らかに樹脂を触っているその手触りの違和感と共に、僕がそのルートにトライする意欲は完全に消えてしまった。
そこにあるのがルートではなく、工業製品のように見えてしまったのだ。
ヌンチャクを回収し、ロープを引き抜き、僕は岩場を後にした。
今後僕があのルートをトライすることは、もうないだろう。



話は戻って2月某日、大ザルの非公開エリアへ登りに出かけた。

ここは1年前の春に一度だけ来て、目を付けたラインを1本だけ掃除したきりだった。
とにかくこの岩場は掃除が大変だ。
苔はもちろんのこと、クラックにもホールドにも土や埃が詰まっていることが多いし、
壁の上の方にはブッシュだけでなく巨大なイワヒバの塊がくっついていたりする。
しかし一方で、ところによっては明確な節理があり、プロテクションは十分に取ることができる。
その節理を上手く辿れば、グラウンドアップで登れるのではないか、という考えがあった。

この日、僕はそのアイディアを実行に移そうと、グラウンドアップで登れそうなラインを探して回った。
そして、岩場の入り口からほど近い場所にある前傾コーナーを登ってみることに決めた。
クラックは地面から壁の上まで伸び、ブッシュに吞まれるように消えている。
上部はイワヒバと苔に覆われているように見えたけれど、多分なんとかなるだろう。
地面から見える範囲で1時間以上眺めまわし、意を決してトライすることにした。

出だしからクラック内の埃が酷く、どれだけチョークアップしても嫌なヌメり方をする。
フットホールドが沢山あって助かるが、傾斜は見た目よりも強く感じた。
気づけばコーナーの奥に体を突っ込んでチムニーのように登っていた。
下り気味にトラバースしたり、ロープドラッグをなくすためにランナーを長くしたりと、
なんだか城ケ崎で登っているような気分になった。
核心と思しきパートで怖さから声が漏れたものの、ホールドの埃を払っては掴み、払っては掴みを繰り返して、ルーフを越えた。
最後はイワヒバの塊にマントルを返し、ブッシュを掴んで壁の上まで抜けた。
思っていたよりも易しかったが、グラウンドアップの初登はやっぱり怖さが違う。

年末年始に登った大堂海岸のような、海岸線の硬い花崗岩ではなく、
苔も土も埃も木もある汚い山の岩でグラウンドアップの初登ができるのか。
その可能性を確認できたことが、最大の収穫だった。
もちろんそうするには岩の節理ありきなので、その分対象はかなり絞られるが、確実に存在するということが分かった。


3月の初め、再び大ザルの非公開エリアへ。
何をやるか迷ったが、1年前に掃除したきり登っていないフェースのラインをやってみることにした。
荒々しく掃除する大ザル

大ザルが掃除中のラインと格闘して埃まみれになっている間に、
こちらは改めて自分のラインの様子をラペルで確認する。
1年経ってまた汚れてしまったかなと思ったが、意外に綺麗なままだった。
ホールドに溜まった埃を軽く掃除して、プロテクションを再確認し、必要なギアを把握。
ムーヴは特に練習しなかった。ホールドを掃除しただけで十分だと判断した。
大ザルの手が空いたところで、リードでトライ。
下部からプロテクションが細かい上に、浅い水平クラックに捻じ込んでいるので、結構心許ない。
アップもラジオ体操とハングボード以外はしていないので、どんどんパンプしてきた。
長居は無用、と思い切って核心に入っていき、落ち着いてムーヴをこなして、薄被りのフェースを抜けた。
春の訪れを感じさせる暖かい日差しを浴びながら、壁の上の木で支点を取って終わりにした。

ギアを回収して取りつきに戻ると、「呆気なく登ったな」と大ザル。
なんだか以前どこかのルートでもそう言われた気がする。


前傾コーナーは、判官贔屓(はんがんびいき)5.10c、
フェースは、豊穣 5.11a PD とした。

今回の2本のルートはどちらもボルトを打たず、オールナチュラルで登った。
それはこの岩場の開拓方針に沿ってのことなのだが、単純に僕がそういう登り方が好きだというのもある。
しかし、2本のルートでは登り方が明確に異なるものになった。
判官贔屓はラペルでの掃除やプロテクションの確認をまったくせず、グラウンドアップで登った。
豊穣はラペルで掃除し、プロテクションを確かめ、ムーヴなどのリハーサルはせずに登った。
言ってみれば、「何をアリとして、何をナシにするか」の境界が異なっているわけだ。

自身を更新し、克服のプロセスを重ねていくところに、僕はクライミングの魅力を感じている。
その意味で、グレードを更新することにも、リスクの伴うクライミングを乗り切ることにも、同じように面白さを見出してきた。
そして今、肉体的な更新に加えて、精神的、あるいは価値観そのものの更新というものがあることが段々と分かってきた。
判官贔屓は、決してハードなルートではないし、綺麗に掃除されれば危ないこともない。
しかしその初登のプロセスには、この遊びを続けていく上で重要な意味があった。

一方、豊穣は判官贔屓に比べて、スタイル的にはあまり突っ込んだことはしていない。
掃除などの必要な準備を整えてから登るというやり方は、これまで瑞牆でやってきたことと何も変わらない。
しかし、たとえラペルで掃除し、プロテクションやムーヴを確認することが妥協に違いないとしても、
こうしてナチュラルプロテクションでフェースを登るクライミングの持つ価値が、僕の中で減ることはない。
それは、ひとつには、「手間をかけてもより良く登りたい」という願いをずっと持っているからだ。
だから僕は、判官贔屓と豊穣、どちらのルートも自分の中では結構気に入っている。

豊穣を登った後、荷物を片付けながら大ザルと話した。
「この開拓の仕方は、1本を登るのに時間がかかるね。でもその分、長く楽しめるとも言えるかもしれない」
大ザルは一言、「そうだね」と言った。
「ボルトを打って開拓すると、すぐに終わってしまう。ある人はそうしてクライミングを辞めていった」とも言っていた。

今回登った2本のルートが、「必要なルート」かどうかは、正直なところ分からない。
そもそも「必要なルート」というもの自体があるのかどうかも、僕には疑問だ。
ただ、はっきりと分かることは、僕が登りたいのは工業製品のように量産されるものではない。
自然の中での偶発性を享受し、自身の中に芽生える何かを温められる、そういうものだ。
スピードを上げることは、必ずしも美徳ではない。
ゆっくりと登ることで見えてくる景色もあるのだろう。