2023年9月4日月曜日

懺悔とジレンマ

「自分は大きな勘違いをしているのかもしれない」
そう感じ、考えさせられる出来事があった。
 
ひと月ほど前、弁天岩と摩天岩に行く機会があった。
雨の翌日で、ルートはジメジメ。それでも弁天岩で目当てのルートをなんとか登った。
摩天岩に下って、ふと対岸に立つ弁天岩を見やると、見慣れた大ハングが目に入る。
そしてその壁に張られているロープの数に驚いた。
対岸から見えただけなので正確な数は把握しきれないけれど、二十億光年の孤独とHumble、それぞれに複数本のロープが垂れていた。
この光景はここ数年、何度か目にしたことがあった。
それだけこの岩場、これらのルートに足を運びトライする人が増えたということだろう。
初登者として、その事実は間違いなく喜ばしいことだ。
しかしその一方で、どうにもモヤモヤとしたものが胸の内に残った。
何本ものフィックスロープが弁天岩のハングに掛かっている様子を見るたびに、非常に複雑な心境になった。
 
予め断っておきたい。僕は2本のルートにトライ中の人たちを非難するつもりは全くない。
その上で「この状況は良くないのではないか」と感じている。
 
ここで、いくつか告白しておきたいことがある。
 
まず僕は、特にRXのつくルートに関して、トップロープ等でムーヴを組み立て、リハーサルをすることを受け入れてきた。
むしろそのルートが困難であればあるほど、しっかりとリハーサルをして臨みたいと考えてもいた。
それは、どれだけ沢山リハーサルをしても、いざリードでのトライとなれば、緊張感や墜落への恐怖はまるで別物であり、それによって登りの精度そのものにも予想できない狂いが生まれ、そのクライミングには依然不確かさが残っている、と僕は思う。
その不確かさを、自分の肉体と精神を信じて一歩踏み超えることに価値があり、尊さがある。そう信じてきた。
また、不必要なボルトは打たずに登るということにも、強い魅力を感じていた。
クラッククライミング等の魅力としてよく言われる「登って降りた後になにも残らない」ということも勿論良さのひとつだが、僕はむしろ、「クライマーがやるべきことが増える」ということに面白さを感じていた。
プロテクションはどこにどう取るのか、その上でムーヴはこなせるのか、そもそも登るべきラインは岩のどこを辿るのか。
ボルトという残置物がないことで、こちらは様々な工夫と熟考を強いられる。
相応のリスクは伴うが、それがボルトのないルートの良さだと考えてきた。
 
そして、その考えに従い、二十億光年の孤独もHumbleも、どちらもフィックスロープを張って掃除、プロテクションの確認、そしてリハーサルを行った。
その際、数年に渡って弁天岩のハングにフィックスロープを残置しつづけた。秋の終わりにロープを回収せず、冬の間もそのままにしてしまったこともある。
 
Humbleが完成してしばらく後、クライミング界の大先輩と話す機会があった。
Humbleの初登記録が載ったRockSnowを手にした大先輩を見て、僕は内心、称賛してもらえるのかもと期待していた。今思うと恥ずかしいことだ。
大先輩は静かにこう言った。
「君がもっと強かったら、グラウンドアップで登れたのではないかな」
流石にそれは無理です、と思った。「理想はそうでも、限界はあるよ」とフォローをしてくれた友人もいた。
しかしこの問いは、今でも僕の中に永く尾を引いている。
 
 
今回、弁天岩の今を改めて目の当たりにし、僕は自分の中に残ったモヤモヤしたものが何なのかを考えた。
そしてそれは、この手のクライミングが孕むひとつのジレンマなのだと思い至った。
ボルトを打たずに登ったことで、かえって壁に残置される物を増やしてしまったのではないか。
僕はたしかに、終了点以外のボルトを打たずにあの壁を登ろうと手を尽くし、それが結実して2本のルートができた。この「手を尽くす」ということに、僕は自分のクライミングそのものの在り方を見出しているし、出来上がったルートも気に入っている。
そして初登したルートは、一度公にすれば自分ひとりのものではなくなる。どう向き合い、どう登るかは各個人の自由であり、その人の考えに委ねられる。
しかしその結果、登るために使うボルト以外の残置物が多くなるとしたら、どうだろうか。
自分がなにか大きな間違いをしてしまったような気がしてならない。
 
繰り返すが、今弁天岩のルートにトライしている人たちを非難する意思は、僕にはない。
むしろ初登者として感謝したいし、トライしている全員に登り切ってほしいと願う。それはクライミングに対する価値観とはまた別に、「ルートは誰かに登られることで存在しつづける」という信条があるからだ。頼まれればビレイでもなんでも引き受けたいくらいだ。
そしてそもそも、フィックスロープについて文句を言う資格は僕にはないのだ。
なぜなら、僕自身がフィックスロープとリハーサルを受け入れてこのルートを登っているからだ。
開拓時には掃除や終了点の設置などの作業があるから、という考え方もあるが、フィックスロープを張って使ったという事実は動かしがたい。
 
ここしばらく、僕の心中はずっと複雑だ。
あの2本のルートを登るために自分が採った手段は、本当にそれでよかったのだろうか。
もしもそれぞれのルートの核心部に1本でもボルトが打たれていたら、現状は違っていただろうか。
ボルトを残置しない代わりにロープを残置することには、果たしてどれだけの意味があるのだろうか。
室井登喜男さんは、ボルトを「妥協点」と語った。僕もその考えには同意するものだ。そして、ボルトと違いずっと壁に残るものでないが、フィックスロープもまたひとつの「妥協点」なのではないか。
そうだとすれば、何の疑問も持たず、リハーサルを行うことを前提にしたクライミングを行ってきた自分は、その「妥協点」に対する考え方を見直すべきなのではないか。
 
弁天岩のハングに通っている人たちのうち、何人かとは個人的なつながりがある。
そうでない人も多かれ少なかれ、どこかでお会いしたり、一方的に尊敬していたりと、様々ある。
その人たちの燃やす情熱に水を差すことになってしまったとしたら、心苦しいばかりだ。
「通い慣れた岩場に来る人が増えて、景色が変わることを拒んでいるだけじゃないの」と言われれば、それまでなのかもしれない。
しかしこれは、自問し続けなければいけないことなのだと強く感じている。自分が今後このクライミングを追求し続けていくためにも。
 
「君がもっと強ければ」と問いかける大先輩に返す答えは、まだ見出せていない。
 

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