2024年2月26日月曜日

そこにあるものは

2月17日、城ケ崎のマーズ(5.13d)を登ることができた。

いわゆる「〇〇リスト」というものを頭の隅に持っている人は、多いことだろうと思う。
僕の中にも実に様々な類のリストがある。
そしてマーズはもう長いこと、「いつか絶対に登らなければならないルートリスト」の筆頭にあった。

マーズについて初めて知ったのは、Rock&Snowの24号、杉野さんのOldButGoldだった。
この号は2004年夏に発売されたもので、なんと今年で丸20年になる。もうそんなに経ったのかと驚くばかりだ。
読んだ瞬間に、それまで読んだ様々な記事とは明らかに異なるものを感じた。
ありがたいことに、実家には岩雪のバックナンバーも相当に揃っていたので、岩と雪の134号を手に取り、吉田さんの初登の記録を読むこともできた。
見るからに何もないルーフの角を、まるで明確なエッジがあるかのように押さえる吉田さんの姿に衝撃を受け、
当時通っていたジムのルーフで似たようなことをしてみた覚えもある。
ペンキとニスが塗られた直角なベニヤの角では、ろくにぶら下がれるはずもなかったけれど、サル左衛門と二人で「マーズごっこ」をした。
周りの諸先輩方には、いったいどんな風に見えていたのだろう。

2017年2月、Stingrayを登って抜け殻のようになった僕は、実家にある岩雪134号を再び手に取った。無心に、あの記事が読みたくなった。
当時のことを、僕はROCKCLIMBING誌にこう書いていた。
『そして読み返した後、「そうか」と思った。僕は白髪鬼とStingrayを登って、一先ずすべてやりきった気でいた。でも、自分はまだマーズにだって、コブラにだって、出会っていない。(中略)燃え尽きたと思っていた自分の中に、また小さな灯が灯った気がした。』

そして7年後、ついにマーズに向かう時がきた。
関東に移り住んでしばらく経つ。2年前に初めて行った城ケ崎の岩場は、驚くほど難しく感じた。
生まれも育ちも山の中だった僕にとって、背後や足元で波が砕け散る環境はどうも緊張を強いられるし、
そもそも城ケ崎の岩やルートに慣れていくのには時間がかかった。
この冬、やっと本腰入れて城ケ崎に通うようになり、タコやシュリンプなどのルートにも足を運んだ。
そうしていたとき、ついにあの不死鳥と名高い鉄人ウラノさんからお誘いをいただいた。
僕は、「今はまだ早い」と言っていられるほど若くもなければ、「今でなくてもいい」と言えるほど強いわけでもない。
ただ何となくの恐怖心で、マーズに向かうことを避けていたようだ。
しかしこの数年のクライミングが自分を変えてくれたらしい。今なら、きっとマーズに対峙することができる。
そう感じた僕は、ウラノさんに「よろしくお願いします」と返信をした。

2月10日、伊東の道の駅で集合し、海亀エリアへ向かった。
ウラノさんの案内で、民家の脇をポータレッジを担いで下りていくと、ほとんど藪のようなアプローチになった。
「ここだよ」と教えられたところを覗いても、チョーク跡すらろくに見えず、目に入るのは海面と、その向こうに揺れる海底の岩だけだった。
下降ポイントを教わり、ギアを用意し、ポータレッジを組み立て、ウラノさんが先に降りていった。
ポータレッジを下し、続いてラペルしていくと、目の前にあの海亀ケイヴが現れた。
想像していたよりも洞窟は小さく、ルートは短く見えた。
しかし、憧れのルートを前に興奮しながらも、「飲まれる」と思った。
またいつもの、シークリフで登るときに感じる湿気っぽい怖さが下りてきた。
「どうする?先にトライする?」と聞かれたけれど、「先にトライしてください」と答えるしかなかった。

ウラノさんが先に1トライし、その出来上がったムーヴとエイドダウンでの回収の様子をよく見て覚え、僕も恐る恐るトライしてみた。
当然、フラッシュを狙えるほどの勇猛さはなく、ダイモスと分岐するよりも手前のセクションでテンションをかけた。
水平のルーフクラックには未だに慣れない。
しかしテンションをかけながら少しずつ探っていくと、自分でも驚くほど早くすべてのムーヴを解決できた。
ウラノさんのムーヴを見ていたし、ハングドッグしながらセッションするようにあれこれと教わったことが大きい。
エイドダウン(というかほぼ水平移動)での回収も、思っていたよりずっと滞りなく済んだ。
この日はウラノさんも僕も3回トライし、それぞれに収穫を得た。
僕は2回目で曖昧だった中間のシークエンスを定め、核心のボルダーセクションも詰めた。
そして3回目、平日のジムで追い込んだ疲れも感じつつ、核心まで繋げてあと数手のところで落ちた。
核心前のガバからルーフを完全に抜けるまでで、僕の、ムーヴで8手。難しめの二段といったところだろうか。

ポータレッジを引き上げ、ヘッドランプを点けて帰る頃には、マーズに対する恐怖心はすっかり薄れていた。
それどころか、早くこのルートに戻ってきたい、あのルーフの下で過ごしたいと思っていた。
これは偏に、マーズに通いつめて完登をリアルにイメージしながら、常に前向きな姿勢を崩さないウラノさんのおかげだった。

続く週はできる限り回復に努め、2月17日、僕らは再び伊東の道の駅に集まった。
朝から小雨が降っていたが、それほど酷くはならないようだった。
それにウラノさんによると、海亀ケイヴは雨に強く、染み出しも驚くほど少ないのだという。
実際にルーフの下に入ってみると、本当にそのとおりだった。
風が強く、波も前回よりも高かったが、むしろそのおかげでケイヴの中の空気が動き、コンディションは良かった。

ウラノさんが1回目のトライを終え、ポータレッジに戻ってきて、すぐに僕がトライした。
アップは足りないはずだが、1回目から登るつもりでクラックに入っていく。
しかし、ダイモスから分かれる直前で決め方が雑になったフットジャムが抜け、あっさり落ちてしまった。
ここはカムを省いてランナウトするし、さらにこのときは右足がロープに掛かってしまい、
そこそこの距離を結構危ない体勢で落ち、下の壁に叩きつけられた。
咄嗟に右手を突いて腰などは打たずに済んだけれど、右の手のひらを切ってしまった。手首も軽く捻ったらしい。
しばらく「今日はもうトライできないかもしれない」と、あの瞬間の自分の迂闊さを呪った。
それでも時間が経って手のひらの血が止まり、多少痛みはあるものの手首も問題なさそうだったので、トライを続けることにした。

ウラノさんは2回目のトライで核心のシークエンスの最後の1ピースを見つけ、ムーヴの安定感が格段に増したようだった。
僕は2回目のトライで先ほど落ちたパートを慎重に越え、核心に突入、前の週の最後のトライと同じ1手で落ちた。
しかし、感触はやはり今回の方が良かった。
次で確実に登る。ウラノさんも、きっとそう考えていたことだろう。

ウラノさんがロープを結び、ギアを携えてポータレッジを離れる。
「浮遊感」という言葉が似あう、とても軽い身のこなしで淀みなくルーフを進んでいく。
ケイヴに反響する波の音に交じって、フーッ、フーッと呼吸する音が聞こえてきた。
核心の前で短くレストし、足ブラになったウラノさんの体がぐるりと回転する。
一瞬、少しだけ浮ついた足元を丁寧に落ち着け、核心に入っていく。波の音に負けないように、僕は声を張り上げる。
最後は細く閉じるクラックを渡り切り、ルーフの角の向こうにウラノさんの上半身が隠れ、すぐに歓喜の叫びが響いた。

さて、これで僕も登るしかなくなった。少しばかり、プレッシャーが増す。
しかしここで登り切ろうと逸る気持ちに手綱を渡せば、心のざわつきが大きくなってしまう。
それもあの杉野さんの文章を読んでからの20年で学んだことだ。

ポータレッジを離れる。
嫌でも力が籠る最初のセクションをこなして、カムを固め取りしてから少し戻ってレスト。
呼吸が落ち着くまで待つと、思考もクリアになってきた。
緊張感と、少しばかり残る恐怖心と、トライすることへの楽しさが同居し、次第にその境目がなくなっていった。
ダイモスのパートを慎重にこなし、核心前のガバで止まる。
第5登したミヤシタさんやウラノさんは、ここまでではほとんど消耗しなくなったらしい。
僕はまだそこまでではなく、緩やかなパンプを感じていた。
でも大丈夫、この程度であれば走り切れる。そう確信して、足を切った。
ビレイしてくれているウラノさんが視界から消えた。ぐるりと体を回し、核心のパワフルなムーヴに入る。
一瞬でも速く抜け出したい気持ちを抑え、ゆっくり確実にムーヴをこなす。
最大の核心になる1手を捕らえ、やっと声が出た。そこからは何度も叫びながら、コーナーに這い上がった。

2日間、6回目のトライだった。
前回が終わった時点で、「次回絶対に登る」と決めていた。今シーズンが残り短いことも分かっていた。
しかし、これだけ早く決着がついたことに驚いているところもあった。
ホールドを掃除しながらエイドダウンでポータレッジに戻り、ウラノさんと互いの完登を喜び合った。

マーズを登ったことについて、大きな喜びと共に、残念に感じている部分もある。
ゼロに近い地点からあのルーフの出口を目指す過程を踏み、登ることができたのなら、どんなに素晴らしかっただろう。
僕は何から何まで、ウラノさんのサポートを受けて登ってしまった。お膳立てをしてもらったようなものだ。
勿論、それは心からありがたいことで、ウラノさんと核心のムーヴについて議論した時間は忘れられない。
第一、その後ろめたさだけで目減りしてしまうほど、マーズというルートの持つ価値は軽くない。
だから、願うだけ詮無いことなのだが、マーズというルートをもっと冒険できていたら、と思う。
それは今なお残る自分の未熟さとして、このルートの素晴らしさと共に覚えておこう。


OldButGoldの記事で、杉野さんはこう綴っている。
『このルーフに込められた情熱のかけらが消えてしまうほど、日本のクライミングは浅くないと思いたい。』
何度も何度も読んだはずのこの一文の意味するところが、今になってやっと分かったように思う。

僕はずっと、クライマーの紡ぐ言葉を読むのが好きで、これまでそれなりにいろいろな人の文章を読んできたつもりだ。
そのうえで、冒頭で書いた吉田さんと杉野さんのマーズを巡るふたつの手記を越えるものには、未だ出会っていない。
そして僕の中では、読むことと同じくらいに自分で書くことも大切で、好きだと感じている。
そこにもまた、二人の先達が遺したこの文章たちから強く影響を受けていると言っていい。

『定宿となったオーシャンの駐車場で、ナイターでテニスのボールを打つ音をイライラして聞きながら、僕はうめく。「たのむ、登らせてくれ」』
そう書かれた吉田さんの手記に、狂気じみたものを感じた人は少なくないだろう。僕もそうだった。執念であり、あるいは妄執のようなものがあると。
しかしそれは、紛れもない情熱から生じる献身だったのではないか。


吉田さんは、青い鳥を追いかけてどこまで行ったのだろう。
杉野さんは、この磯で感じたものを誰に届けたかったのだろう。
僕にとっての青い鳥は、このケイヴの中には居なかったけれど、またひとつ大切なものを学ぶことができた。
それはカバンの中に入れた石ころのようで、誰の目にも美しく映るものではないけれど、今の僕にはその美しさが分かる。
そしてその重みが、僕の背中をそっと押して支えてくれることだろう。
だからこそ、まだ進み続けたい。自ら登り、読み、書き続けたい。
受け取り、考えて、誰かに繋いでいく、その営みの中。そこに情熱と名の付くものがある限り。

ウラノさん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。