2023年4月15日土曜日

いま、ひとたびの

昨日、monolithic blockの新作『HUMBLE』が公開になりました。

今回はいつにもまして、いまし監督に長いことお付き合いいただきました。
制作の初期段階から新しい試みをあれこれとやりつつ、多忙な合間を縫って遂に完成。頭が下がります。
過去作では、インタビューを撮るときにはその場で浮かぶものに任せていることが多かったですが、今回ばかりは言葉選びを相当に悩みました。
時間はかかりましたが、こうしてきちんと形にするために必要な時間だったのかなとも思います。

一度口から出てしまえば、その言葉を作り変えることはもうできません。
どう受け取り、何を思うかは、受け取る人に委ねられます。
物事を表現するというのは、すべからくその宿命を負っているのでしょう。
この作品が観た人の中に残すものは、熱なのか、ささくれなのか。
いずれにせよ、素通りすることなく、何かを感じてもらえる作品であれば幸いです。

2023年4月3日月曜日

ホームにて

ツアーから帰国後は、梅雨かと見紛う天気図にヤキモキする週もあったけれど、そこそこで登っている。

帰国した翌週は、単身で久しぶりに小川山に行ってみた。
特にやることは決めず、完全に気分。花崗岩に触るのも久しぶりな気がした。
朝、信州峠を越えて川上村に下りると、ナナーズの隣にコンビニができていた。びっくりしすぎて立ち寄ってしまった。

日陰は雪が融けずに残っているので、日の当たる屋根岩方面へ。
なんとなく気になって、以前友人から「これ知ってる?」と教えてもらったミッドナイトランブラー(二段)をやることにした。
手近な課題でアップして、15年くらい前にトライした気がする皐月(初段)と花豆(初段)も登った。
皐月はポケットの保持が皮にくるので、気合を入れてゴリ押し数回でなんとか登った。
花豆はハングから出て左に行っていそうな見た目だったけれど、そちらはさっぱりできず、ほぼ直登で解決。すぐ右のカンテは限定っぽいので使わず。

で、本題のミッドナイトランブラーへ。
コロンビア豆ボルダーの左端にある鋭利なカンテ。どうもラインはカンテの右のフェースを登っている。
が、右手でカンテを持って離陸しようとすると、浮けない。浮けません。
登った話すらほとんど聞かない課題なので、これはどうやってみてもいいだろうと、ホールドを探して右往左往。
最終的にカンテを挟む形でスタートできることが分かり、出だしの数手が止まったトライでそのまま登れた。
中間部のガバを取ってしまえばあとは見た目よりも簡単だったけれど、落ちられない下地だしひとりぼっちなので、緊張感があってよかった。
同じ岩のラウンドミッドナイト(二段)も相当気になったけれど、流石にこれはふらっと来てトライするような課題ではなさそうなので、次回に回した。

その後は不可能スラブへ。誰かいるかと思いきや、人の気配すらなかった。
貸し切りだぜラッキー、ということで、これもまた数年ぶりの伴奏者をやってみた。
ひとつめの核心だと噂の出だしで指もソールも結構すり減った。
出だしを突破できたトライで中間部をこなし、後半の核心に何度か入ったものの、これができず。
これもふらっと来てできるほど易しくないか。

冬の日をやりたかったけれど、行ってみると雪解け水でびしょびしょだったのでやめ。
時間が余ったので、2年ほど前にヨレて敗退して翌日風邪まで引いた、因縁の小川山ジャンプへ。
足の組み合わせを何通りか試して、「これだ」というのが見つかって、その後数回で一気に距離が伸びた。
最後は気持ちよくスパーンと止まって登れた。あー、すっきり。

それにしても日中の日向はやけに暖かかった。ボルダーのシーズンは早くも終了か...


その次の週、今度はあさこさんとふたりで小川山。
あさこさんがトライ中のマナ(5.13a)をやりたいので、屋根岩5峰へ。
平日に雨が降っていたけれど、日陰の雪はまだまだ残っていた。
午前中は日が当たって暖かくかなり快適。が、昼を過ぎると途端に曇って寒々としてきた。
この時期はまだまだ油断がならない。防寒着を多めに持って行って助かった。

ギャオスでアップして、あさこさんがマナを1回トライして、僕はこんにちはおっぱい(5.12b)。
前回は1年半ほど前の秋だった。そのときに1回だけトライして、OSできずに敗退した。
今回もやたらと悪い出だしに行きつ戻りつした。これで12bか...
そこを鼻息荒くこなして、あとは10台後半くらいのフェースを登って終了。
名前の由来にあたるホールドが、ルートを登らないと見えないというのが良い。

お昼を挟んで、曇り空の下で冷たい風が強くなり始めた頃、あさこさんが2回目のトライ。
出だしのムーヴでプルっとしたけれど、スラブに這い上がって仕切りなおす。
数メートルの空間を横切って、ゆっくりした呼吸の音が力強く聞こえてくる。
1年半前に一緒に来てビレイしたときには、細切れにしかできていなかったムーヴが、今回はどんどんと繋がっていった。
手の先、足の先まで力が漲っているのが、ビレイグラス越しでもよく分かった。
4本目までクリップして少しレスト、それから核心が始まる。
一手一手、ゆっくりだが淀みないムーヴで捕えていく。こちらの応援も次第に大きくなった。
5本目のクリップ、そして直後に一番の核心が待っている。
ここのムーヴは、1年半前はそこだけやっても解決できていなかった。
「この前久しぶりにトライしたら、ムーヴができてん」と話を聞いてきた今回、それは「やっとこさできた」というものではなく「ずっと前からできていた」という動きに見えた。
向きも掛かりも微妙なホールドにじっくりと指を収めて、力強く核心の一手を止め、上部のスラブへと抜けていった。

素晴らしい瞬間だった。
登った本人よりも、ビレイヤーの方が泣いていたかもしれない。

あさこさんの登りに俄然やる気をもらい、指よ皮よ(5.13a)もやってみた。
こんにちはおっぱいと同じ出だしをこなして、そのまま丸いカンテを押さえながらダイレクトに登る。
実際やってみると、カンテに出るまでが悪くて、あとは11あるかないかくらいだった。
なんどやっても緊張する出だしを突破し、初めて触るオリジナルのセクションは慎重に時間をかけたら一撃ですべてこなすことができた。
どうだろう、コンディションがいいからなのか、おっぱいとグレード1つくらいしか違わないように感じた。
出だしが共通なのでOSでもFLでもない。むしろ出だしが最大の核心のような気もする。
指よ皮よ

とにかく、この傾斜の13が少ないトライ数で登れたことで十分満足だった。

お互いにやりたいことが早めに終わったので、当然早めに撤収して温泉に入り、夜はフォンテーヌブローで買ってきたビールで乾杯した。
グレードが書いてある(当然、7Aがいちばん濃かった)

薪ストーブで焼いた焼き芋が美味い!


2023年4月2日日曜日

回顧録

Karmaを登った後、これまでとは違うなにか特別なことを感じた。
ツアーから帰って1か月弱、その整理がついてきたので、書き残しておこうと思う。

僕が感じたことというのは、弟と自分のクライミングのことだ。
結論から書くと、それは次のようなシンプルなことだった。
「随分前に分かれた道が、こうして交わることがあるのだな」と。


2013年、初めてのブローツアーで、Franchard Cuisiniereを回った日があった。
弟とふたり、Franchardの駐車場に置いて行ってもらい、夕方にピックアップしてもらった。
僕は指に穴が開いていたこともあって、この日はカメラだけを持って行き撮影に専念していた。
その日、彼はKarmaを登った。あまり時間はかからず、呆気ないくらいに早かったと記憶している。
ツアー中にメンバーの間で流行っていたコーラ味のグミを、Karmaの上に乗っている小さい岩に置いておいて、登った弟がそれを咥える、という一コマも撮った。


ここからは、酷く恥ずかしい話になる。
僕がなぜクライミングを始め、そして続けてきたのかということについてだ。
断っておくと、僕のクライミングはとても後ろ向きな感情がスタートだった。
純粋かつ前向きな気持ちでクライミングと出会い、それに向き合ってきたわけではない。
始まりにあったのは、ちっぽけな自尊心からくる自己否定だった。

話は僕がクライミングを始めた頃に遡る。
僕ら兄弟は言わずもがな、父の影響でクライミングを真剣な趣味として始めた。
が、これには言葉が少し足りない部分がある。
当時10歳の僕は、年の近い弟に勝てるものがないことに悩んでいた。
大人になってみれば「子どもらしい悩みだ」と感じるけれど、まさに子どもだった僕にとってはこれが何より重大な悩みだった。
特に理由もなく、「兄は弟よりも強いもの」という価値観が僕の中にはあった。
だからこそ、どんなものであっても、弟に先を行かれる自分を受け入れることが難しかった。
それを見かねた父が、「お前はクライミングを始めなさい。そして3年は絶対にやめないこと」と言った。これが本当の始まりだったと言っていい。
その後すぐ、地元にあったジムに通うようになり、ほどなく弟もついてくるようになった。

自信をつけるために始めたクライミングでも弟に勝てない、ということを思い知るのに、そう時間はかからなかった。
とあるコンペの後で、「お兄ちゃんの方はびっくりするくらい弱かった」という陰口のような言葉を、偶然聞いてしまったこともあった。

高校を卒業し、クライミング歴が10年目を迎える。
クライミング自体がどんどんと面白くなっていく一方、後ろ暗い部分が胸の奥にずっと根を張っていた。
そこだけが、僕の中で最後の最後まで子どものままだった、と言えるのかもしれない。
この頃僕はアルパインクライミング等にも手を出しはじめ、少しずつ自分のクライミングの幅を広げようともがいていた。
しかし自分が冬山に登っている間に、弟やその仲間は岩場でどんどんと成果を上げている。
努力をしていなかったわけではないが、自分と弟との差はむしろ加速度的に開いていったように思う。
時間は誰にとっても有限だ。新しい分野に挑戦するということは、その分もとからあった守備範囲を磨く時間は減っていく。
そのことは至極当然だが、当時の僕はそれがなかなか受け入れられず、「自分は一体何をやっているのだろう」と呆然とすることもあった。

僕はずっと、ただ弟に勝ちたかった。
そうでないならせめて、弟のようになりたかった。そういうことだったのだと思う。

ただ、この期間を経て、僕と弟の進む道は明確に分かれていった。
似たようなフィールドで登ってはいても、目指していくものは少しずつ違っていた。
20代になり、それぞれの進路を選んでいくのと重なるように、クライマーとして内に秘めるものも変わっていったように思う。
紆余曲折を経て、自分が弟とははっきりと違うクライマーであることを、今の僕はどうやら自覚できている。

…とここまで書いてくると、弟へのコンプレックスがどんどんと拗れているように感じるかもしれないが、弟に対してネガティブな気持ちを抱いたことはない。
弟は常に僕の気持ちを湧き立たせる存在であったし、出所がどこであっても、憧れという気持ちは強い力を生むものだ。
もうひとつ、僕にとって大きな幸運だったのは、家族をはじめ身近な人たちが決して弟と僕を比較しなかったことだ。
「弟にはできるのに、どうしてお前には」という言葉に晒されていたら、きっとそれは僕の抱く好奇心を惨たらしく押しつぶしていたことだろう。

弟と僕を比較してとやかく言うのは、いつだって僕自身だったのだ。

時は流れ流れて、2023年。僕はなんとかKarmaを登った。
10年前の弟とは違い、随分と苦労したし、ギリギリのクライミングだった。
あの頃を思い出して岩の上のグミを探すようなことをする余裕もなく、感情の嵐に流されてあっという間に岩から下りてきてしまった。
その嵐が過ぎ去って落ち着くと、「10年かかって、やっとここか」と思った。
10年前のツアーで、弟はKarmaだけでなくBig Islandまで登ってしまったわけで、そういう意味では僕はまだ当時の彼の背中に触ることすらできていない。
ただその「やっとここか」という感情に、悲嘆や諦観のようなものはない。
あるのはある種の感慨だった。
あの頃の自分はカメラのこちら側で何を思っていただろう。
彼が登ったことに喜びつつ、どこかで「悔しい」と感じていたかもしれない。
同じ家で同じ飯を食べて育ち、同じジムや同じ岩場で登っていても、まるで違うクライマーが出来上がるということを、当時の僕は知らなかった。
そして自分が弟ではなく、本当は何になりたいかを考えられるようになることも。

枝分かれして違う方角へ伸びていった道は、曲がりくねり、登り下って、気づくと10年前に見た景色の中に帰ってきていた。
道を辿った先で、ここに出るとは思っていなかった。
遠回りや寄り道を随分とたくさんしてきた気がする。
「もしもあのとき、あちらに行っていれば」と、現実とは違うことを思い描くことは今でもある。
しかし10年前のこの場所に思いがけずやってこれたことで、その分の距離と時間への後悔はもう感じなくなった。
ずっと前に分かれた道と、偶然また交わった。そんな気がしている。

自分の道がどこへ続くのか、もう一方の道がどこへ向かうのか。
それは今のところ分からないけれど、またいつか、どこかで交わったらいいなと思う。
また会いましょう。