2024年5月27日月曜日

2024年5月18日

不動沢、摩天岩にあるプロジェクトを初登した。


弁天岩のセンスオブワンダーが完成したのが2018年の5月。
その年の8月、大ザルと二人で摩天岩のこのラインを偵察に行った。
かぜひきルートを2ピッチ登って壁の上に回り、ラペルしてみると、思ったよりも傾斜があった。
明確な節理は繋がっておらず、途切れ途切れのフレークとポケット、浅いコーナーなど、ピースが散らばっているように見えた。
そしてその年から、大ザルがこのフェースを掃除してトライを始めた。

2023年、大ザルが心臓の病気で入院したという報せが、母から突然届いた。
兄も、僕も、サル左衛門も事態が分かってくるまで、前触れなく訪れた不安で騒然となっていた。
今にして振り返ると、母の抱えた心労は計り知れない。僕もすぐに面会に行きはしたが、頭が下がるばかりだ。
幸いなことに命に別状はなく、その後のリハビリの甲斐あって、日常生活には問題ないところまで回復した。
しかし登山やクライミングについてはより慎重にならざるを得ず、ずっと不透明だった。
入院前のように登ることはもうできないかもしれない。
誰も言葉には出さなかったけれど、僕はそう思っていた。
病気以前に、年齢的な衰えのこともある。あとは本人がどう受け入れていくのかだ、と。

その年の暮れくらいのことだったと思う。
「摩天のプロジェクト、代わりにやってくれていいぞ」
大ザルが僕にそう言った。
一度下りた時の記憶から、良いルートになることは分かっていた。断る理由はない。
以来僕はこの半年ほど、春が来るのを待ちわびていた。

今年の5月、GWの後半に改めて壁の上に回り、ロープを張って作業に入った。

NINJAを登った翌日、一人で摩天岩に向かった。
この日は前回終わらなかった掃除の続きをして、核心と思われるパートのリハーサルもした。
このルートはラインが蛇行している上に、前回ロープを切りかけた凶暴なダイクが上部に突き出ているので、
フィックスにぶら下がってすべてのパートを触るのは骨が折れる。
それに、掃除をした感じで、核心以外は初見でも大丈夫そうに見えた。
そこは楽しみを取っておこう、ということにした。
この日は一日曇りで、壁の状態は良かった。
核心のムーヴをやってみた感触では、暑いと歯が立たなくなりそうだ。
どのようにそのチャンスを作るか、それを考えながら、小雨が降り始めた登山道を下った。

「来週リードします」と大ザルに連絡すると、「ビレイしに行きたいな」と返ってきた。
そう来るだろうと思っていた。

5月18日、朝は5時に起きて不動沢に向かった。コンディションを掴むための作戦は、シンプルに早起き。
自分一人で先に行って掃除とムーヴの確認を済ませ、大ザルには後からゆっくり来てもらうことにした。
壁の下に着いたのは8時半前。ラジオ体操をして、ギアを用意し、フィックスをユマールした。
摩天岩は全体に南向きで、あっという間に暑くなってくるだろうと予想していたけれど、
実際に日当たりの変化を見てみると、このラインは若干南南西を向いているらしい。
9時を過ぎても、1P目の核心はまだ半分くらい影だった。

10時過ぎに大ザルが上がってきた。
それとタッチの差くらいでムーヴを確認し終え、体も温まったのでトライの用意をした。
ギアを取りつきに並べて、不足がないか、いつもよりも重ねて確認した。
大ザルとロープのやり取りのことも少し相談しつつ、壁を見やる。
最後まで影があった1P目の核心も、流石に日向になっていた。
しかし今さら暑さを気にしても仕方ない。やってみるだけだ。

木登りと易しいフレークを過ぎて、大ザルが打ったピトンにクリップ。
このピトンはポケットに突き刺さっているので、恐らく抜けないはずだ。
少しクライムダウンしてレストし、呼吸を整えて核心のボルダーセクションに入った。
最初の数手をこなして、左上のアンダーフレークで少しチョークアップして、ダイクを右へ。
ここのトラバースがいちばん悪く、ホールドもシビアで、よく繋がっていてくれたと思う。
少しばかり温まってしまったホールドを握りこみ、「抜けてくれるなよ」と念じながらデッドを出して、なんとか核心を越えた。
ピトンはしっかり入っているけれど、それでも足元を過ぎるのでなかなか緊張した。かなり声も出た。
あとはまた易しいフレークを登って、カムで支点を作りピッチを切った。

大ザルがユマールしてきて一言、「結構簡単に登ってくれたな」。
いやいや、簡単ではなかったって。
しかしとりあえず、いちばんの懸案事項は終わった。

ギアを整理し、2P目を登り始めた。
このピッチはムーヴをやっていない個所が多いが、そこは現場処理。
出だしから、1P目とは違う緊張があった。
最初のプロテクションを固め取りして、さっそくこのピッチの核心が始まる。
このパートは1P目よりもずっと易しいけれど、ランナウトも長い。
そしていちばんランナウトするところにちゃんとボルダームーヴが待っている。
ここも緊張でホールドを握りすぎ、壁に入り込んでしまったせいでフットホールドが見えにくくなった。ここでもまたしっかり吠えた。
核心最後の1手をこなしてガバを掴むと、とりあえずは一安心。
この手のランナウトには慣れてきたつもりだけれど、未だに怖いものは怖いのだ。
核心を抜けてから、しばらくは快適なフェースが続いた。
ここは大きなポケットがたくさん開いていて、登っていて驚くとともに楽しい。
上部のハングの付け根に潜り込むと、一際大きな洗面器上の穴が開いている。
ここはGWに来た時は乾いていたのに、このときは水が溜まっていた。
これからまた長いこと、この水は干上がらずにここに溜まっているのだろう。

最後のハングを越え、短いコーナーとその先のランナウトするスラブを慎重に登り、壁の頭に抜けた。
核心は明らかに1P目だけれど、2P目はとにかく内容が素晴らしかった。
大ザルがユマールしてきて、「よかったな」とだけ言った。
拳を突き合わせることはなかった。
ただ肩を寄せ合って記念写真を撮り、持ち上げた水筒でお茶を飲んだ。


このルートは大切に登りたいと考えていた。
大ザルが何年も通い詰めて可能性を探っていたことや、そのためのトレーニングを続けていたことは知っていた。
それに、それを諦めることが決して簡単ではなかったということも、想像がつく。
そのためか、かかった日数は少なかったけれど、このルートをどのように登ったものか悩んだ。
もともと大ザルが掃除していたラインに限らず、改めてその左右の壁をよく見て探った。
打たれているハーケンを使うか否かも検討したし、2ピッチに分けず1ピッチで通して登ることも考えた。
しかし結局は、登るラインは大ザルが見定めていたものと同じになり、
2本あるハーケンは両方とも使い、当初の構想通り2ピッチに分けて初登した。
ロープにぶら下がって岩を磨いているうちに、ある考えが浮かんでどうしても離れなくなったのだ。
「これは僕が見出したものではなく、あくまで引き継いだものだ」ということだ。
『引き継ぐ』という言葉をどのように考えるか、それは難しい。
少なくとも僕にとっては、この言葉の持つ意味はとても重く、そして大切だ。

ラペルで掃除して、時間をかけてリハーサルをして、プロテクションも確認済みの状態で登ったので、
開拓のやり方として新しい挑戦ができたわけではなかった。
そのことには少しばかり悔やまれるところもある。
しかし、このルートが無事に完成し、そしてとても良いものになったという結果だけで、今は十分なのだろう。
いや、十分すぎるくらいなのかもしれない。

ルート名は、大ザルにつけてもらうことにした。
トライの数日前、「何か考えている名前があればつけてください」と頼むと、「2031」と返事が来た。
2031年。指折り数えてみると、その年に僕はちょうど40歳になるようだ。
そして、クライミングを始めて30年になるのもこの年だ。
まだ随分先のようにも、そう遠くない未来であるようにも思える。

ラペルして取りつきに降り立ち、ロープを抜いて、また壁を見上げてみた。
複雑な形状が繋がった、特徴的な内容を持つルートだった。
「こういうのが残っていたんだな」と言うと、大ザルは「見る目が変わったっていうことだよな」と言った。
友達クラブによる不動沢の開拓当時は、綺麗な壁にはっきりと伸びる節理こそが美しいとされ、皆それを探し求めていた。
クライマーが持つその美的感覚は、今も概ね変わっていないのかもしれないが、視点は確実に変化した。
大ザル自身が初登したかぜひきクラックと、そこから20メートル左の壁にあるこのルートが、その変化の大きさを感じさせてくれる。
それは進歩と言えるのだろうか。それとも違う言葉を与えるべきなのだろうか。
いずれにせよ、僕はその新しい視点で岩を見ることが面白く感じている。
そして、その結果またひとつ出来上がったこのルートの持つ内容が気に入っているのだ。
大ザルがどのようにこの壁を見ていたのかを自分も共有できたことと、
そして古希が見えてきた大ザルのその目が未だ曇っていないと分かったことも含めて。

40歳になるまで、あとどれくらい自分はこういうルートを登ることができるだろう。
ひとつでも多く、そしてより良く登って、その時を迎えたいと願うものだ。
そして2031年の5月になったら、このルートのことをゆっくりと思い出し、父と子で語り合ってみたい。

『2031』 (不動沢、摩天岩)
1P目:5.13b 15~20m
2P目:5.12a R 30~35m
使用ギア:C#0.3~#3 アルパインドロー数本
備考:下降は同ルートをラペル(50m)。上部の鋭いダイクには注意が必要。



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